柴田勲(1967年)
法政大学第二高等学校→読売ジャイアンツ (1962~1981)
■成績 .287 18本 50点
■主な記録
盗塁王 6回(1966年、1967年、1969年、1972年、1977年、1978年)
ベストナイン 4回(1967年、1971年~1973年)
ダイヤモンドグラブ賞 5回(1972年~1974年、1976年、1977年)
日本シリーズMVP 1回 (1966年)
赤い手袋の多摩川ブルース
V9巨人の中心人物。入団時は野手ではなく投手で、
ルーキーながら開幕1軍のローテーション一角であったが、
3試合に登板して0勝2敗という結果に終わってしまい
川上哲治監督に投手失格の烙印を押されてしまい野手に転向。
投手としての肩強さと俊足を生かして外野手となり、
更には足の活かすために左打ちも覚えて
日本初のスイッチヒッターとなった。
2年目の63年5月末にレギュラーに定着。
66年には初の盗塁王も獲得。
67年以降は右打ちでの長打力も増し
王貞治氏や長嶋茂雄氏と共に中軸を打つ機会も増え、
68年には26本の本塁打を放つが、三振が増えて率を残せず
盗塁王を取り逃すという結果は終わってしまう事もあった。
71年からは再びスイッチヒッターに戻り、
前年.256だった打率を.282まで回復。
80年に入団してくるロイ・ホワイト氏と松本匡史氏の台頭まで
巨人の主軸の1人して走攻守すべてで活躍した。
81年に現役引退。引退後は兼任していた
二軍打撃兼外野守備コーチに専任。
王貞治監督時代には三塁コーチャーとしての
判断能力のなさからメディアから壊れた信号機と揶揄され
2年連続優勝を逃した責任をとって退任。
退任後は評論家として活躍し、
日本プロ野球名球会の代表取締役社長や
巨人OB会の新副会長などの職についたが、
現在はどちらからも退いている。
■特能等解説
初球○
いい打者は難しく考えないと論じ
自身もよく打ってると語った。
プルヒッター
基本は引っ張り。足で稼げるヒットは少なかった。