尾茂田叶(1938年春秋)
松山商業学校→明治大学
東京セネタース (1937~1939)
■成績 .300 1本 23点(38年秋)
■主な記録
東西対抗戦出場 3回(1937~1939)
回転レシーブ
ホノルル生まれの日系2世。12歳の頃に広島県に引き揚げ、
そこから野球を始めて松山商業時代には
現在の甲子園の元となった選抜中等学校野球大会に出場。
その後明治大学への進学経て、
37年に東京セネタースの横沢三郎監督に誘われて入団。
松山商業時代から培われた地上スレスレで捕球し、
回転して一瞬のうちに返球する回転レシーブを武器に
打撃面では38年秋季リーグでリーグ3位となる打率.300を打ち、
苅田久徳氏とのノーサインでのヒットエンドランなどで
セネタースのレギュラーとして活躍。
しかし39年に召集を受け退団。南方戦線に送られると
戦地で腸チフスを患いながら生き抜き、ニューギニアで終戦を迎える。
終戦後市岡忠男氏から巨人に勧誘されたが、
これを断り球界から退いた。
以後は社会人野球の丸善石油、愛媛相互銀行で監督を務めた後に
母の故郷である愛媛県の道後温泉で外国人相手にボランティアガイドを務めた。
■特能等解説
守備職人
回転レシーブ。魔術師でも良いかも知れないけど名前的にね…
流し打ち
苅田とのノーサインでのヒットエンドランが得意な事から。
送球E
矢のような送球だったらしいが
送球面の指標や数字は低め。
出身地、よびかた
一応アメリカに設定。
父の故郷の広島か母の故郷の愛媛でもいいかも。
呼び方はおのだと入れてありますが、
おもだが正しい呼び名です。
かなうという呼び名があったんですがなんとなくこっちに。