【パワプロ2022】杉下茂(1954年)

※仕様上、背ネームはPAWAPUROとなっております。
ご使用の際にご注意下さい。

杉下茂(1954年)

旧制帝京商業学校→いすゞ自動車明治大学旧制専門部
中日ドラゴンズ名古屋ドラゴンズ中日ドラゴンズ (1949~1960)
毎日大映オリオンズ (1961)

■成績 防御率1.39 32勝12敗

■主な記録
最多勝利 2回(1951年、1954年)
最優秀防御率 1回(1954年)
最高勝率 1回(1954年)
沢村栄治賞 3回(1951年、1952年、1954年)

日本初のフォークボーラー

日本で初めてフォークボールを投げた投手が名が知られ
現在でも存命の数少ない大正生まれの人物。
高校から軍隊に入り戦争を経て社会人へ。
そして六大学リーグ再開と共に
大学へ入学しながら野球をしてきたが、
在学3年目を終えた時に高校時代から世話になっていた
天知俊一氏らの助力もあり中日ドラゴンズへ入団。

1年目は前述の右肩の痛みから8勝に終わってしまうが、
2年目の50年から27勝上げる活躍をみせ、
3年目の51年にはサンフランシスコ・シールズ監督から
アメリカのキャンプに招待されて渡米。
川上哲治氏や藤村富美男氏らと共に様々に技術を学び、
帰国後は前年を超える28勝上げて最多勝沢村賞のタイトルを獲得した。
そして4年目の54年には日本プロ野球史上4人目、
2リーグ分立後初となる投手五冠王に輝き、
文字通り最強投手の地位を獲得した。

その後、8年目の57年には200勝を達成。
選手として成熟したかと思えた58年に
中日球団から30歳以上の選手は不要だと言われ、
球団に様々な条件を飲んでもらう代わりに監督就任。
事実上の現役引退となった。
1年目こそ2位で終える事が出来たが、
2年目には5位をという結果に終わってしまい中日を退団。
61年には毎日大映オリオンズへ投手コーチとして訪問したが、
永田雅一氏からの一言で現役復帰を果たす事となったが、
2年のブランクから4勝しか出来ず再び現役引退をした。

■特能等解説

変化球
オリ変フォーク、ドロップカーブ、シュートという形に。
シュートはシンカーとか言われてたり、
頻度的にはあまりフォークを投げてなかったと言われてるが、
緩いフォークをカーブのように投げたという事もあるため
個人的にはこの証言をあまり信用していない。
人によって色々個性が出る部分だと思うが、
意外とオリ変で再現してるのもなかったので
奪三振率なども考慮したりして
オリ変で再現するのが丸いと考えたので、
今回はオリ変にしました。

オリ変
元祖フォークボール
ナックルのような軌道で左右に揺れる変化。
今回はナックルにフォークのような
キレの良さを踏襲する形にしてみた。

回またぎ○
シーズンの後半の8月と9月は中継ぎでの登板多くなった。