【パワプロ2022】稲尾和久(1961年)

稲尾和久(1961年)

大分県立別府緑丘高等学校→西鉄ライオンズ (1956~1969)

■成績 防御率1.69 42勝14敗

■主な記録
最多勝利 4回(1957年、1958年、1961年、1963年)
最優秀防御率 5回(1956年~1958年、1961年、1966年)
最高勝率 2回(1957年、1961年)
最高殊勲選手(MVP)2回(1957年、1958年)

神様、仏様、稲尾様

そのタフネスな投球から鉄腕と呼ばれ、
ライオンズの永久欠番にもなった伝説の選手。
高校時代はプロのスカウトと複数接触し、
紆余曲折あり56年に西鉄ライオンズに入団。
しかし三原脩監督からは打撃投手として獲得したと呼ばれ、
実際に打撃投手を行う事となっていたが、
この打撃投手の練習によって制球力が磨かれ、
これを見たチームメイトなどが三原へ試合での起用を進言し、
開幕戦に中継ぎとしてプロ初登板。
4回を無失点に抑えると、以後もそのまま活躍して
パ・リーグ記録の防御率1.06という成績を残して新人王を獲得した。

翌年以降も当時のプロ野球記録となるシーズン20連勝など
あらゆる記録を総ナメにして野武士軍団と呼ばれた
西鉄の中心人物へとなり、
61年にはヴィクトル・スタルヒン氏を超える
シーズン42勝をマークした。

しかし62年以降は全盛期の鉄腕的起用からの
勤続疲労よって成績を落とすも、66年にリリーフ専任として復活。
大投手の代名詞でもあった300勝を目標目指していたが、
69年に腰を痛めるとリリーフとしても勝ちを上げることはできず、
同年に現役を引退。

これと同時に起きた黒い霧事件よって
かつての野武士軍団1人であった
中西太氏が監督を辞任したため、代わりに稲尾が監督に就任。
しかしゴダついた中での監督であったため思うような結果は出せず74年に解雇。
その後や中日のコーチやロッテの監督を歴任。
ロッテ監督時代は村田兆治氏を復活させたり
あの落合博満氏を見出して西鉄時代には果たせなかった
チームのAクラス入りも果たす事が出来た。

晩年は解説者やマスターズリーグの監督など広く野球界に関わっていた。

■特能等解説

変化球
複数のシュートとスライダーなどが武器。
伸びるシュートとカットボールと呼ばれた球はムービングファストに統合。
落ちるシュートはシンキングツーシームで対応しました。

対左投手F
対右被打率.191、対左被打率.273。

重い球
重いと言われてたが、ボール自体があまり飛ばない時代ではあった。
しかし被本塁打率は低めなんでいいかなと。

■備考

変化球の所ではああゆう風に書きましたが、
シュートのない稲尾はかなり違和感あるので
オリ変で対応した方も作成しました。
お好みで使い分けてください。