【パワプロ2022】落合博満(1997年)

落合博満(1997年)

秋田県立秋田工業高等学校東洋大学(中退)
東芝府中ロッテオリオンズ (1979~1986)
中日ドラゴンズ (1987~1993)
読売ジャイアンツ (1994~1996)
日本ハムファイターズ (1997~1998)

■成績 .262 3本 43点

■主な記録
首位打者 5回(1981年~1983年、1985年、1986年)
本塁打王 5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)
打点王 5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)
最高出塁率 7回(1982年、1985年~1988年、1990年、1991年)
ベストナイン 10回(二塁手部門 1981年、1982年 一塁手部門 1983年、1988年、1990年、1991年 三塁手部門 1984年~1986年、1989年)

オレ流野球の終着駅

96年オフ左手首の骨折等で離脱もあったが、43歳で打率3割を記録した落合。
しかし所属球団の巨人はオフに清原和博氏をFAで獲得。
チームを若返りを察した落合は自ら自由契約を申し出て巨人を退団。
新たな所属先として具合案を提示していた日本ハムへ入団することとなった。
新天地での11年ぶりのパ・リーグのシーズンは序盤こそ打率3割台と
前年同様好調であったが、6月中旬から失速。
更に8月に守備のプレイで左第四指末関節骨を脱臼。
以後先発出場が激減してしまい、結果的に長年維持してきた
二桁本塁打が途切れてしまった。

翌年98年はスタイルを変えて
バッティンググローブとサングラスを付けて臨んだが、
移籍前のような力は取り戻すことはできず
西浦克拓氏を初めとした後のビックバン打線のメンバーも台頭など伴い
完全にチーム内での立場を失ってしまい
シーズン最終戦に代打として出場し現役を引退。
本人曰く優勝争いをしていたチームに迷惑をかけたくなかったことと
代打で始まった野球人生、最後も代打でよかったと語った。

■特能等解説

流し打ち、いぶし銀
前年手首の負傷に伴ってか打球を引っ張れず長打力が激減。
しかし流し方向への健在であった。

決勝打
勝利打点はチーム2位の10打点。

ムード×、チームプレイ×
本人の性格もあってチームメイトとの溝は拭えなかった。

■備考

yoko1006.blog.fc2.com

大体はカメハ様の参考にして作成しました。
細かいデータ等などありがとうございました。