【パワプロ2022】バッキー・ハリス(1938年春秋)

バッキー・ハリス(1938年春秋)

南カリフォルニア大学→L・A NIPPON
名古屋軍 (1936)→後楽園イーグルス
イーグルス (1937~1938)

■成績 .324 6本 24点(1938年春)

■主な記録
本塁打王 1回(1938年春)
最高殊勲選手(MVP) 1回(1937年秋)
東西対抗戦出場 2回(1937年~1938年)

外国人3人衆の1人

異国の地で捕手として活躍した外国人選手。
メジャーリーグを目指してマイナーリーグでプレイする傍ら
日系チームに所属し日本遠征にも参加。
しかしその後、世界恐慌によって給料の低くなった
マイナーリーグのチームを退団。就職しながらも
日系チームではプレイを続けていると
日本初のプロ野球リーグに発足に伴い名古屋軍がハリスをスカウト。
ウマの合っていたハリスはこれを受け名古屋軍に入団した。

1936年に来日。来日すると非日系のアメリカ人として注目を集め
その打棒でリーグ6位の.310をマークしてたちまち人気者へとなった。
しかし翌年の37年に名古屋軍監督であった河野安通志氏が
後楽園イーグルスを結成しバッキーの譲渡が求めてたが、
名古屋軍側から認められず一時帰国。
ただ6ヶ月以上経過すれば選手の希望球団に入団できるという
不文律のようなものが当時のプロ野球には存在し、
河野氏を慕っていたハリスは6月にイーグルスへと入団。

春季リーグこそ移籍のいざこざで活躍は出来なかったが、
秋季リーグになると当時の最多記録となる17二塁打を打ち、
前年の打棒が復活。また守備面でも若かった
畑福俊英氏や中河美芳氏を率いて
最下位だったチームを3位にまで押し上げた。
そして翌年の38年は春季リーグで6本塁打を打ち本塁打王を獲得。
秋季もリーグ2位の打率.320を打つも日米関係の悪化もあって退団。
しかしその根強い人気から送別試合が行われ、
バッキーも日本との別れを悲しんだ。

■特能等解説

投手能力

shokuyakyu.blogspot.com

36年の公式戦と送別試合で登板。
投げてる球種等は分からなかったので大雑把な感じで能力設定。

ささやき戦術、かく乱

バッキー・ハリス - 職業野球異色列伝

走攻守全てのプレイを相手をかく乱。

マルチ弾
38年春に2回記録。これで苅田久徳から本塁打王を奪取。

■備考
他の人をみると度々名前を出されることが多かったので
自分で作り直しました。
なんと言っても投手能力実装は真新しいかなと思います。