【パワプロ2020】山内 和弘(1957年)

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山内和弘山内一弘](1957年)

愛知県立起工業高等学校→川島紡績
毎日オリオンズ毎日大映オリオンズ (1952~1963)
阪神タイガース (1964~1967)→広島東洋カープ (1968~1970)

■成績 .331 29本 81点

■主な記録
首位打者 1回 (1957年)
本塁打王 2回 (1959年、1960年)
打点王 4回 (1954年、1955年、1960年、1961年)
最多出塁数 4回(1954年~1957年)
最高殊勲選手(MVP) 1回 (1960年)

シュート打ちの名人

高校時代は投手であったが、大柄な体や瀧正男氏らの指導のもと

打撃面でも活躍。家が貧乏であった事もあり、

プロ野球選手になる事を目指し特に地元の中日ドラゴンズへの入団を憧れていたが、

二次テストで不合格。軟式の強豪であった川島紡績に入社し

都市対抗野球大会に出場。そこで塁審をしていた

元阪急の井野川利春氏の勧めなどもあり、

1951年の11月に毎日オリオンズテスト生として入団した。

 

入団1年目は熱心な姿勢と才能を見抜いた

若林忠志2軍監督より2軍戦で積極的に起用され、

6月には1軍昇格。44試合出場ながら

打率.336を記録する活躍をみせるが

2年目は黄疸による長期離脱をしてしまう。

しかし3年目は1軍全試合出場し、97打点で打点王を獲得。

更には当時のパ・リーグ記録となる80四球も記録した。

 

以後はオリオンズの中軸として

50年代のパ・リーグを代表する選手として活躍。

60年には榎本喜八氏、葛城隆雄氏らとともに

大毎ミサイル打線の一員として50年以来の

10年ぶりのオリオンズのリーグにも貢献した。

しかし63年、10年選手精度にて移籍を模索していた中

精密機械小山正明との世紀の大トレードにより阪神タイガースへ移籍。

活躍の場を当初憧れた中日のいるセ・リーグへと移す事となった。

■特能等解説

プルヒッター

左右打ち分ける選手とされるが、実は引っ張りが多い選手との事。
以前作成時に入れていた広角打法と差し替える形に。

アベレージヒッター

首位打者自体は通年通して1回だけだが、
毎日時代はシーズン打率3割をほぼ常時達成。
代案としてラインドライブなどもあるが、今回は比較的に
二塁打が少なくシーズンであったためこちらに。

国際大会○

1955年の日米野球で全日本チームのメンバーとして
8試合に出場して.379、2本塁打の成績を残した。